あざらしの死

ざらしは野性へと帰っていた。人間界に溶け込もうと人間の姿をしていたこともあったが、それも失敗に終わってしまった。「所詮はあざらし、人間とは違う。」そう痛感したあざらしは人間から離れ、人の来ない場所―北極に戻り、余生を過ごすことを決意した。

しかし、現実は甘くなかった。人間界での長い生活の結果、あざらしには取り除きようのない人間の匂い、即ち異臭が染み付いており、仲間の群れにも混じることが出来ず、北極で一匹、孤独を生き抜くことを余儀なくされた。

ざらしは考えた。「生物は何故共存出来ないのだろうか。」「何故人は人に混じろうとする海豹を拒み、海豹は人の香りが染み込んだ海豹を拒むのだろうか。」と。

そしていつしか、あざらしは気づいた。人と海豹の間には「共感性」がないからであると。人にとって海豹には何が起ころうが関係はない。絶滅を防ぐために保護をしている場合もあるがそれはあくまで人間による科学的利用のためであり、海豹達の意思に共感してのものではない。科学的興味を持たずに保護を訴えるものもいるが、それは所詮は「可愛いから」や「可哀想だから」といった理由であるが、これらも海豹の意思とは関係せず、いわば愛玩具とその持ち主のような関係に近い。海豹も人間に対して共感性は抱いていない。目の前で人間が死のうが、それはただ、一つの生物の命が終っただけとしか思えず、餌を与える人間がいようが、それはただ餌を与える人間というだけでありそこに愛情や恩義等は存在しない。

海豹と人間、二つの種族による共存など、最初から無理だったのだと、あざらしは悟った。

そしてあざらしは、いつしか流氷の上で動くのをやめてしまった。絶望感や厭世感が、あざらしの体から筋肉の動きを、神経の働きを、脳の思考を、完全に停止させてしまったのだ。

そして水面に黒く大きな影が写った。水面がゆらめき、流氷は不安そうに揺れる。しかしあざらしは動かないまま、じっと、水平線の彼方を見つめていた。

次の瞬間、あざらしの視界を牙と口が覆った。

流氷は赤く染まったが、いつか色は流れて透明に戻るだろう。